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2006年3月18日 (土)

A-Life関係読後感

今日読んだペーパー達とコメント:

Complexity, Self-Organization, Robert Richardson ,Biology and Philosophy 16: pp.655-683, (2001)

KauffmanのOrigin of Orderの紹介・それが何を説明しているのか・その説明はどの程度妥当かについての批判的考察。Kauffmanの方法は、生物学的現象への統計的アプローチである。よってそれは個別的な事象を対象としていない。あと、「選択はカオスの縁に生物を保つ」というテーゼへの懐疑的意見など。

Universal Biology,  Kim Sterelny ,British Journal of Philosophy of Science, 48: pp.587-601, (1997)

LangtonのArtificial Life, BodenのThe philosophy of artificial lifeのレビュー+批判。サンプル数の少なさ(N=1問題)をコンピュータモデルで補う強いA-LIFE戦略は心の機能主義と類比的であり、失敗する。一方カウフマンのモデルに対しては、現在の生物学的現実と一致しないという批判的意見。

「普遍生物学」であるために人工生命研究は何をせねばならないか,  戸田山和久 , 科学哲学 33-2: pp.57-71, (2000)

SoberのA-lifeにおける強いAL批判を批判的に踏まえながら、N=1問題に対して強いALを擁護する必要性自体を批判する。Soberは強いALと強いAIを類比的に捉えすぎている(両者の間にはギャップがある)。しかしそもそも、N=1問題は疑似問題にすぎず、人工生命は他のアプローチがあるはずである。したがって強いAL自体を擁護する必要がない。

Leaning from functionalism - Prospects for strong artificial life,  Elliott Sober , in The philosophy of Artificial Life (Boden ed.)

強いAI/ALの間の共通点を機能主義にみる。その問題は、1)抽象をどこまで許すか、2)行動主義的なテスト(e.g.チューリングテスト)はAI/ALが知能/生命の検証方法たりえないことである。生物学的プロセス自体は計算ではなく、シミュレーションは対象自体ではない。したがってそれが生きているかどうか、という問いにはそもそも意味がない、という強いAL批判

というわけでAL論争をざっと見たわけだが、今ひとつその納得できない。まずそもそもLangton自身が実際に強いAL(=生物をシミュレートするコンピュータモデルは生きている)を主張しているかどうかに疑問の余地がある(c.f. Artificial Life, Langdon 1996)。戸田山の論文はそこをついているのかもしれないが、しかしその場合なおそれを「強い」ALという必要性はあるのだろうか。

それより思うのは、Sterelny、戸田山ともにN=1問題の解決は強いALを要請すると考えているようだが、それはそれほど自明なことだろうか。別にシミュレーションモデル自体が「生命」であるといわずとも、その結果から生命現象への統計的なデータを得ることは可能なように思われる(例えばコンピュータ上の水爆実験は実際に爆発ではないが、水爆爆発についての実質的データを与えると考えられている)。例えばKauffmanの一般生物学的法則はこうした事例ではないだろうか?

OTK

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